チベット仏教では、悟りに至る道を「智慧と方便の不二(ふに)」として説きます。
その中で、最高ヨーガ・タントラ(アヌッタラヨーガタントラ)の最終段階に位置づけられる実修が、カルマムドラー(karmamudrā)=行為の印です。
この言葉は、西洋ではしばしば “sexual yoga(性的ヨーガ)” と訳されますが、原意は単なる性的行為ではなく、宗教的象徴と高度な心身ヨーガの融合を意味します。
1. カルマムドラーとは何か
カルマムドラーとは、サンスクリットで「行為の印」を意味し、“歓喜と空性の不二”を体験的に悟るための究竟次第(完成次第)の修行を指します。
この実践では、「智慧(空性の理解)」と「方便(慈悲・エネルギー)」を統合する象徴として、
観想上あるいは現実の伴侶(ムドラー)を用いることがあります。
✅ 目的は快楽ではなく、煩悩を智慧に転換すること。
「欲をもって欲を滅する」という密教的逆説の象徴です。
2. 三つのムドラー(印)の体系
密教の文献では、「ムドラー(印)」という言葉がいくつかの段階に用いられます。
| 名称 | サンスクリット | 意味・位置づけ |
|---|---|---|
| サマヤムドラー | samayamudrā | 誓約の印。師弟関係・戒律を保つ「誓い」を象徴。 |
| ジュニャーナムドラー | jñānamudrā | 智慧の印。観想上の伴侶とのヨーガ(象徴的修行)。 |
| カルマムドラー | karmamudrā | 行為の印。実際の伴侶を通じて行う究竟次第の修行。 |
| マハームドラー | mahāmudrā | 大印。最終的な悟りの境地そのもの。 |
つまり、「性的ヨーガ」と呼ばれるものの多くは、実際にはこのカルマムドラーを指しています。
3. 歴史的背景と位置づけ
カルマムドラーはインド後期密教(8〜10世紀)に成立し、のちにチベットへ伝わりました。
特にカギュ派やニンマ派では、トゥンモ(内なる熱)を基礎とした完成次第の修行として発展しました。
- 思想的枠組み:最高ヨーガ・タントラ(アヌッタラヨーガ)の「生起次第→完成次第」体系
- 目的:煩悩のエネルギーを智慧へ変容し、光明(クリアライト)の体験を得る
- 結果:智慧(空)と歓喜(大楽)が不可分であることを体得する
チベットの伝統では、カルマムドラーは「性の実践」ではなく、「悟りの体験を象徴する最終段階」として語られます。
4. 僧侶の戒律とカルマムドラー
重要なのは、カルマムドラーをすべての修行者が行うわけではないという点です。
- 僧侶(出家者)
→ 性行為は戒律上のパーラージカ(僧籍喪失)に該当します。
ゆえに僧侶は観想の伴侶(ジュニャーナムドラー)のみを対象とします。 - 在家行者(ナクパなど)
→ 一部の伝統で、師資相承のもとに灌頂と誓約を受け、象徴的にカルマムドラーを修学する例があります。
つまり、カルマムドラーは在家密行者限定の秘教的実修であり、
僧院・一般信者が行うものではありません。
5. 「性的ヨーガ」という表現が誤解を招く理由
西洋やニューエイジの文脈では、「タントラ=性的開放」「性を通じた悟り」という誤解が広まりました。
しかし、チベット密教のカルマムドラーは次のように明確に異なります。
| 項目 | チベット仏教のカルマムドラー | 一般に誤解される「性的ヨーガ」 |
|---|---|---|
| 目的 | 欲望の昇華と智慧の顕現 | 快楽や感情的結合 |
| 前提条件 | 灌頂・戒律・段階学修(トゥンモなど) | 条件なし・誰でも実践可と誤解されがち |
| 中心概念 | 「歓喜と空性の不二」 | 「性と愛の調和」など心理的側面 |
| 師弟関係 | 厳格な口訣・師資相承が必須 | 独習・ワークショップ形式が多い |
6. 倫理と条件
カルマムドラーを理解する上で最も重要なのは、倫理と準備条件です。
- 灌頂(Abhisheka)を受けること
→ 正式な師からの授与がない限り、実践不可。 - サマヤ(誓約)を守ること
→ 秘密保持・尊師への敬意・利他行を誓う。 - トゥンモや菩提心の基礎修行に熟達していること
→ これは心身エネルギーを制御する力の訓練。 - 同意と安全の確保
→ 伴侶間の明確な同意・信頼関係は絶対条件。 - 僧侶は実践対象外
→ 僧戒により、カルマムドラーの実践は認められない。
✅ カルマムドラー=悟りの象徴的道具であり、
現実的な性行為とは目的も意味も全く異なります。
7. 他宗派との比較
| 宗派 | カルマムドラーの扱い | 備考 |
|---|---|---|
| ニンマ派 | 在家密行者(ナクパ)伝承に残る。ゾクチェンと関連。 | 一部経典では象徴的表現。 |
| カギュ派 | 「ナーローパの六ヨーガ」に含まれる究竟次第。 | トゥンモ→カルマムドラーの順。 |
| サキャ派 | ラムドレ(道果)体系の中に象徴的な位置。 | 生起・究竟の統合として扱う。 |
| ゲルク派 | 僧院中心のため観想(ジュニャーナムドラー)重視。 | 実際のカルマムドラーは否定的。 |
各宗派については、こちらの記事で詳しく解説しています。

8. よくある質問(FAQ)
Q1. カルマムドラーは性交のことですか?
A. いいえ。象徴的に身体的接触を用いる場合もありますが、目的は快楽ではなく「心のエネルギーを智慧に転換する」ことです。
Q2. 在家でも行えるのですか?
A. 可能ですが、灌頂と師資相承が必須条件。独習や模倣は禁じられています。
Q3. 僧侶がカルマムドラーを実践することはありますか?
A. ありません。戒律により性交は重大な破戒です。僧侶は観想上の伴侶を対象とします。
Q4. 性的ヨーガと同じ意味ではないの?
A. 部分的には重なりますが、「性的ヨーガ」は広義の俗語であり、カルマムドラーは宗教的象徴・悟りの技法です。
9. まとめ
- カルマムドラー(行為の印)は、チベット仏教の究竟次第(完成次第)に属する最奥義の一つ。
- 目的は「歓喜と空性の不二」を体験することであり、快楽追求とは無縁。
- 僧侶は実践しない(観想のみ)。在家でも正式な灌頂と誓約が不可欠。
- 「性的ヨーガ」という語は俗訳であり、カルマムドラーの宗教的深義を正確には表しません。
10. 編集後記(TIBET INORIの視点)
TIBET INORIでは、チベット仏教の「タントラ的象徴」を、誤解なく・敬意をもって伝えることを目指しています。
カルマムドラーは生命エネルギーと智慧の融合を象徴するヨーガであり、
「性」を超えた「統合(ヨーガ)」の思想として理解することが、真の学びへの第一歩です。
